活動レポート
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TEIKYO SDGs report安全保障とは何か

- 平和と軍隊とSDGs -

10 人や国の不平等をなくそう16 平和と公正をすべての人に17 パートナーシップで目標を達成しよう

10 人や国の不平等をなくそう16 平和と公正をすべての人に17 パートナーシップで目標を達成しよう

髙杉 洋平 准教授の写真 

帝京大学 文学部史学科 准教授 髙杉 洋平

海上自衛隊生徒(41期)を経て、2003年に國學院大學文学部史学科卒業。2009年國學院大學大学院法学研究科 博士課程後期満期退学後、宮内庁書陵部編修課(非常勤)に勤務。2013年より國學院大學大学院に再入学し、博士号(法学)を取得。同大学兼任講師や、日本銀行金融研究所歴史研究課職員、広島大学の助教などを経て、2019年より帝京大学文学部史学科に着任、准教授を務めている。

このレポートを要約すると...

  • 日本の近現代史研究は、日本自身が戦争を繰り返さないために生まれたという経緯がある。
  • 今後は得られた教訓を日本のみならず、世界の安全保障に活用すべきだ。
  • 「損失を嫌う」という人の心理状態を指すプロスペクト理論のように、安全保障理論には時代や国家を超えた共通点が多い。
  • 各国の利害が交錯する安全保障議論は極めて複雑であり、きれいごとではすまない面がある。
  • 持続可能な社会の実現という普遍的なテーマを掲げるSDGsもまた、多種多様な利害が複雑に絡み合うことから、国家間の安全保障のあり方に類似している。
  • 日本の近現代史の知見を導入することで、新しいSDGsの捉え方が可能になるはずだ。

軍隊に見る歴史

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私の専門分野は軍隊の研究です。特に大日本帝国陸海軍と政治や社会の関係性にフォーカスしています。軍隊は武力であり国家権力のひとつですが、各国によってあり方が異なります。近現代では、帝政、共和政、権威主義、民主主義、共産主義など、さまざまな政治形態の国家が現れ覇権を争った歴史があります。軍隊はそうした国家の政治形態との相互作用の中で、国家の歴史に大きな影響を及ぼしました。したがって近現代史を考える上で、軍隊は避けては通れない研究対象です。そもそも日本における近現代史の研究は、戦争の反省から生まれたと言っても過言ではありません。日本がかつて無謀な戦争をした経緯や理由を解明することで、日本自身が再び過ちを繰り返さないようにしようという強い動機が発端でした。こうして、現代の日本は先人たちの努力の甲斐もあり、極めて「平和主義的」な国家となりました。ある意味、理想とした状況が実現しつつあります。一方で、我々のような現代を生きる日本近現代史の研究者たちは、研究目的を再定義する必要性に迫られています。なぜなら平和主義と民主主義が根付いた現代日本で、かつてのように軍隊(自衛隊)が暴走し日本自らが主体となって戦争を起こすようなことはちょっと想像しにくいからです。

こうした中で私は、日本近現代史研究から得た教訓を日本だけにとどめず世界全体に向かって普遍的なものとして広げることができるのではないかと考えています。世界の安全保障問題へと応用するのです。近年では、台湾問題、尖閣問題、朝鮮半島問題、ロシアのウクライナ侵攻、イスラエルとパレスチナの問題など、安全保障に関わる問題に焦点が当たることが増加しています。世界は再び表立って戦争をするような風潮になりつつある。だからこそ歴史的な観点からの安全保障を考察することの価値は高まっていると感じています

失うことを恐れる人々

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プロスペクト理論をご存知でしょうか?心理学に基づく行動経済学の代表的な成果として知られています。端的に言えば、人は何かを得る利益よりも損失を重大視するということです。たとえば、1万円の入った財布を落とした場合必死で探しますよね。では、どこかに1万円入った財布が落ちているかもしれないと言われたとして、それを一生懸命探すでしょうか?プロスペクト理論では、この判断に関わる重要な要素として参照基準点(リファレンスポイント)という考え方を挙げています。先ほどの例だと、自分の財布を探す場合の参照基準点は「財布を落とす前」です。ですから損失を避けるために必死で探すことはプロスペクト理論から不自然ではありません。一方で、落し物の財布が自分のものでない場合の参照基準点は「財布を持っていない現在」ですから、そもそも損失は生まれないため必死にはならないのです。

この考え方は安全保障問題にも適用できます。歴史的に見ても、戦争が始まる原因が、参照基準点の違いをお互いが正確に認識していないことにあることが多々あります。例えば太平洋戦争直前の日米交渉を例に考えてみましょう。当時の日本は日中戦争の最中であり、中国大陸に広大な占領地域を確保していました。日本にとってはその現状こそが参照基準点ですから占領地を放棄はできないし、逆に中国に占領地域を諦めさせるのは可能だと考えてしまう。これに対して、米国や中国にしてみれば、占領前の状況こそ参照基準点ですから、日本は占領地を返還すべきだし、またそれは可能だと考えた。こうして、参照基準点がお互い相容れないものとなり、戦争以外での解決方法がなくなってしまったのです。

こうした現象はロシアのウクライナ侵攻やパレスチナ紛争でも観察できます。紛争当事国がどちらの側でも自国の参照基準点こそが絶対的で、相手国も同じ参照基準点を共有していると考えるために、自国の行動は防衛的(損失回避)であり、相手国の行動は攻撃的(利益獲得)だと認識してしまう。そして相手国は利益獲得のための行動にそこまで固執しないだろうと考えてしまうのです。台湾有事を考えるとき、中国の参照基準点と台湾(日本・米国)の参照基準点が異なるであろうことは認識しておく必要があるでしょう。

変化する社会を診る

こうして見ると、国や時代が違えども安全保障にかかわる原理原則は共通点が極めて多いということが分かります。我々が日本近現代史を学ぶ意義もここに見出せるでしょう。この立場に立脚するならば、戦争の原因をもっぱら日本のみに見出して「絶対平和主義」を固持していれば、それで平和は保たれるという従来の内向きな思考が時代遅れとなっていることは明白です。

現在の日本では、平和と軍事力は相反する対照的なものとして認識されていますが、世界的にみれば平和と軍事力は表裏一体です。例えば十分な軍事力を持っていると相手が認識していれば、戦争状態に持ち込むことを躊躇するでしょう。自らにも甚大な損失がでるからです。ということは逆に「平和主義」が他国の軍事行動を誘発する場合もあり得るということです。これは、軍事力の放棄こそが平和への道と考えがちな日本人の感覚からすれば容認しがたい現象かもしれません。もちろん、軍事力が相互の恐怖心を高めて戦争を誘発する危険性があることも正しい。結局、安全保障の議論はものすごく複雑で曖昧です。相手が何を考えているか不明ですし、こちらが考えていることが相手に正確に伝わっているのかも不明なのです。難解極まりない個別の判断に国家全体の命運を委ねなければならない時もあります。「平和」は極めて不安定なバランスの上に成立しているに過ぎないのです。

しかし、全世界的な平和が一時的に実現していたと言える時代があります。米ソ冷戦期です。もちろん、局地的に戦争はありましたし、核戦力の脅威は拡大の一途をたどりました。しかし、東西両陣営があれほど憎しみ合っていたことを考慮すれば、第三次世界大戦が避けられたのは驚くべきことです。これは、双方が自らを100%正義だと信じながらも、核均衡の存在が大きく、世界の滅亡という最悪の結果を防ぐためには、どこかで双方が折り合いをつけなければならないことも理解していたからです。そして、お互い相手方が自分たちとは違う考えを持っていることを理解するために全力を尽くしたのです。つまり、お互いの参照基準点をかなり正確に理解できていたのです。ゆえにぶつかることのない冷戦となった。悲劇はたくさん生まれましたが、大局的な戦争に発展しなかったという意味において人間の冷静さの勝利と言えるのかもしれません。同時にこの冷戦期において、安全保障の議論が成熟していきます。平和や軍隊の考え方にとっても大きな節目となりました。

安全保障とSDGsの類似性

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経済的・文化的関係を深めることで、軍事的衝突が回避できるという安全保障の考え方があります。現代において世界各国は、経済から文化に至るまで多様な要素における利害関係を濃くしています。相互理解が進み、経済的互恵関係が成立し、戦えばどちらも莫大な被害を受ける状態が作り上げられています。これによって戦争が回避されている面は確実にあるでしょう。しかし逆に、関係の深化は新たな争いを生み出す面もあります。歴史的に見ても、戦争は経済的・文化的な関係が深い国家間でこそ発生しています。日中戦争もウクライナ戦争も台湾有事も、経済的・文化的に極めて関係性の深い国家間の争いです。結局、軍事力の優先順位が高い状態に変化はありません。また経済力が伸びれば軍事力が伸びるのも現実です。この点において、安全保障における平和的(経済的・文化的)アプローチと軍事的アプローチは矛盾していないと考えることができます。安全保障議論はとてつもなく複雑です。

実はこうした安全保障の考え方と、SDGsは本質的に似たものではないかと感じています。安全保障議論には、人間個々人の幸福を実現することが、ひいては国家や世界の平和につながるという「人間の安全保障」という考え方があります。その意味でも安全保障とSDGsは実は緊密な関係性があります。SDGsが抱える課題にも安全保障議論との共通性が大きい。先進国と途上国との関係も、プロスペクト理論をベースに考えてみると分かりやすいでしょう。COP20などで議論されている、経済成長と環境負荷の話も、どこに参照基準点を置くのかが重要な議論になっています。しかもSDGsでは、領土という分かりやすいものではなく「未来における可能性」のような曖昧な論点です。相互の参照基準点を探り、妥協点を模索している最中だと言えるのではないでしょうか。ここに、安全保障とSDGsの共通項が見えてきます。軍事力のように、SDGsにおける重要なファクトとなるものはどのようなものかはまだ不明です。エネルギーなんかはそれに該当する可能性があるのかもしれません。全世界が共通の認識をもって行動を起こしつつあるという点においては、これまでの国家間には見られないパートナーシップの可能性が生まれつつあり、同時にそのことが新たな対立を生み出している側面もある。ある意味安全保障の議論に近い状態が生じています。きれいごとだけでは上手くいかないだろうし、かといって理想を見失っては未来はないでしょう。全人類共通の課題である環境危機に立ち向かうために、私たちが手にいれるべき力とは何か。本当に興味深いテーマであると感じています。